成田亨の美術世界
知る人ぞ知る成田亨については語らずを決め込んでいたのだが(←意味不明)、これらの労作を前にしてコメントするとなるとどうにも避けられないのだな。
『成田亨の世界』展を観る PART1
『成田亨の世界』展を観る PART2
こんな辺境で御託並べたところでどうにもならないとはいえ、なにしろ良くも悪くもネットの世の中だ。
ココログが無くなるかこっちが解除しない限りこのままなのよね。
という訳で成田Worksを特撮周辺の枠組みで語った文章は今までも数多く発表されていると思うが、それ以外の眼をもって記した文章は知る限りでは極めて少ないと思えるのが現状だ。その意味でも前述のリンク先は貴重な労作である。
といってもここ10数年ぐらいの状況って実はよく知らないので間違ってたら何だけどな〜。
ところでこのレベルの内容が個人のささやかなブログで語られるしか無いというのもなかなか貧しい話だ。最近になって多少散見するようにはなったが本当に全くと言って良い程に語られてこなかったんだよ。ざっくり20年は遅いというか空白というか。
我々の世代ぐらいになると芸術は芸術として存在するし適当な言葉が見当たらないので使用するがサブカルチャー/ポップカルチャーはやはりそれはそれとして存在するので、言うなればClassicは高級でRockは低俗みたいな古くさい決めつけと変わらん故それぞれに優劣つけようとは思わないが、なかなかクロスオーヴァーしないのは音楽も美術も変わらない。まあ村上隆みたいなのは手口のみが先鋭に過ぎて個人的には受け付けないがね。(つまりその中では勿論、良いものもある、(だけど)悪いものもある。って事な)
まあ何だ。実感として古典美術と成田亨っていう視点で見られる層って大きな括りでいう所のClassicとRockをともに好む向きよりもより少ない感じはするものねぇ。
一つにはそれだけULTRA WORKSが偉大に過ぎたという事実は否めないのだが。事実モンスター造形という点だけを取り出して見ても既に発表から40年たっているにもかかわらずその斬新さは質/量ともに未だに世界的に類を見ない。もとよりベクトルが違う方向なのは承知の上で有名かつたぶん金持ち(笑)だから引き合いに出すけど、例えばほとんどその感性だけでモンスターを生み出したHR.Gigerなどと比較すれば、成田亨は感性のみならず美術的な意味で極めて論理的な視点を持つ事が出来た故にバラエティに富みながら署名的という点ではその差は明らかである。
今に至るまで資本主義というか商業主義という現代社会の枠組みの中で、あるいは映画/テレビ界の中でその極めて早期から関わりながら芸術家が出来る事、やるべき事といったものをその葛藤までコミで非常に自覚的に取り組んだのはひょっとして成田亨一人だけだったのではないかとすら思える。というか逆に言うとそのポジションには成田亨しかいなかったとしたら他にいる訳も無いのだが、今となってはこれは我々にとって極めて幸福な配剤だったと(成田本人の意志はさておき)天に感謝すべきなのである。
てかやっぱり内容かぶっちまったなぁ。まあ備忘録って事でかんべんしてつかーさい。
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『日本ゼロ年展』以来、若い世代の美術評論家や学芸員の方々が現代美術やポップ・アートの文脈から成田亨を再評価している文章は散見される様になりましたが、『現代美術』を評価する人って、評価の方法が『文学的』っちゅーのか、要は作家の人生や社会情勢と絡めた『意味の解読』に重点が置かれ過ぎていて、美術作品としての感性的な魅力に付いては語られていないと感じていましたので、今回もっと古典的、かつ既成の権威に囚われない切り口で語ってみたいと思った訳です。不勉強な点や整理されていない点もかなり感じてますので、いずれ再チャレンジしたいと思っちょります。
Posted by: うぃんすろう | September 10, 2005 at 11:31